ソリッドに、ただソリッドに

1990年生まれ。社会の関心事をソリッドに切っていきます

アジカン後藤氏の反論から考える(意思なきフェスの乱立、祭りの後の虚無)

もはや夏の風物詩ともいえる野外音楽フェス。

日本4大音楽フェスの中でも大本命のフジロックに寄せられた批判について、アジカンの後藤氏が反論している。

headlines.yahoo.co.jp

 

本文内で後藤氏は以下のように主張している。

後藤は20日にツイッターで、「これまでいくつものNGOやアーティストがさまざまな主張をステージで繰り返してきたわけだし」と、フジロックと政治の関係性について述べ…

2015年のフジロックのアトミックカフェでは津田大介、細美武士らが川内原発の再稼働について警報をならしていた。よって、2016年以前でもフジロックでは政治的なメッセージを発する場を設けているのである。

 

「そんなことはいい、おれは純粋にフェスの音楽を楽しみに来てるんだ」

 

そんな声が聞こえてきそうであるが、そういう人はフェスの本質を履き違えている。

 

野外フェスの誕生は1969年、アメリカでおこなわれたウッドストック・フェスティバル。ベトナム戦争を起こした政府に対するカウンターとして生まれたヒッピーたちが集い、4日間で約40万人を動員した伝説のフェスである。

 

フェスの起源に政治的メッセージが含まれているのである。もちろんそこから発生したフェスにはそれ自体のレゾンデートルといえるメッセージが含まれている。

 

フジロックはメインのメッセージとして自然との共生や再利用などクリーンなイメージを打ち出しているエコなフェスである。

 

それも一つの政治的メッセージであるのだが、そこに対する反発は日本国内ではほとんどみられない。これが中国であれば、排ガス規制などをかけるような言説と結びつき、素直に受け入れられることはないであろう。

 

今やロックは死に、音楽は手軽に身につけてファッションのように聞くものなっている。また、フェスについてもメッセージもなく、単なる商業的なものが増えている。

 

後藤氏がいうように歴史のあるフジロックでは、メッセージを込めたアーティストが発表する場としたいという気持ちはよくわかる。でないと、メッセージがこもったフェスはなくなり、ただの商業的な動員の後には虚無しか残らないと思う。

 

SEALDSの主張も共産党の主張もそれ自体がフェスに相応しくないと考えるのは自由である。ただ、主張なき音楽だけを良しとするフェスを擁護する態度はいかがなものかと考える。